今日は、三陸鉄道の一部路線の復興開通式典が、田野畑駅などで行われる。

私たちは、その式典に参加するべく、朝の7時半にセンターを出かけた。国道45号線を約50キロほど北上し、途中から山間部の急な坂道を降りた所に、色とりどりの風船が舞い、たくさんの自動車が止まっていた。8時半から開始したと言う開通イベントには、平野復興担当大臣も参加。

報道陣もごった返す中で、地元の人々にすれば、久々の明るいニュースに思わず笑顔が出てしまっている。まさに、三陸の足「三鉄」なのだ。
テレビのコマーシャルも、地元新聞の紙面も大々的に特集を組んでいた。

私は、以前から三陸鉄道の社長さんには一方的にメールを送りつけ、ぶしつけながら「復興に当たっては、ぜひともバリアフリーの鉄道にしてください。障害者も三陸の風景を楽しめる電車にしてください」とお願いをしており、とにかくも社長さんとはお会いしたかったという気持ちだ。

きわめて多忙の中、イベント途中で日程を消化している社長さんに、あらかじめ会社の関係者にご挨拶をしていて、耳打ちをしてもらい、会っていただくことに成功した。
そして開口一番、社長さんから「すぐにはできませんが、必ず徐々にバリアフリーのものにしていきます」と言うお言葉を頂いた。すでに、新しい電車の中には、車椅子用のトイレが設置されていた。

このこと自体に驚いたのだが、私の顔を見るなりのお言葉に感激した。
「よし、必ず、障害者仲間による三陸ツアーを組んで、リアス式海岸の展望を一緒に感じることができるように、その日を目ざして応援体制を組まなければ・・」と決意した。
イベント会場には、東京銀座のレストランが無料でお料理を振舞い、イカ焼きが提供され、テレビ中継も行われていた。
駅それ自体は山にありながら、東を向けばすぐそばには海の風景。津波がここまで来たと言われてもにわかには信じられない光景だった。

イベントも半ば、私たちは、お昼過ぎに会場を後にした。
(続く)
theme : 東日本大震災支援活動
genre : 福祉・ボランティア
だいぶ以前のことだが、健常者のある方が、地震や火災や津波で恐い思いをするのは障害者だけではない、健常者も恐いのだから同じ思いよ、と言ったことがある。本当だろうか。一歩でも二歩でも、自分の力で逃げようとして逃げれる人と、自分の力では一歩も動けない人の恐怖感と言うものが同じだろうか。私は大いに疑問に思ったことがある。
車いすに乗ったまま、ベッドの上に寝たままの姿で、そのまま波に飲まれていってしまった状況を想像すると、何かしら気持ちが重くなる。
釜石のほうに入りかけると急に風が強くなる。浜風なのだろうか。破壊された建物とまったく被害の無かった建物とが隣り合わせている。地元の人が、ここまで波が来たんだよという、その指先がその境を示している。本当に、数メートルの違いでその明暗は分かれていた。

釜石の海岸からやや奥まった所にある「被災地障がい者センターかまいし」に午後3時少し前に到着。目ざすKさんも時を同じくして到着していた。
これまでの情報で、唯一彼との共通点は、二人とも骨形成不全症と言う病気であること。それだけだ。そこで想像したのは、お話好きで、冗談が言えて、何せ口から先に生まれてきた人のイメージ、あるいはそのまったく逆に、きわめて陰気で、人の顔はじろっと見つめて身構えるタイプ。私の独断と偏見による想像は、前者のほうで大当たり。いや、想像以上の話し振りで、すでに、出版社による一般の書籍を作っていて、アマゾンなどでも売り出していると言うことだった。
やられたー、先をを越されてしまった。--と言うライバル意識はちょっと置いといて、今は施設で生活されていて、できればそこを出て、自立生活をしたいとのお話もお伺いした。ぜひぜひ、このさまざまに厳しい環境の中で、その思いが実現するならば、周囲の人たちの意識も変わり、周りの環境も変わっていく。そしてまたその後輩たちが続いていくだろう。
一緒に出かけて行った京都からのメンバーともメルアドの交換もし、今後の再開とギャグの交換?を約束してお別れした。
(続く)
theme : 東日本大震災支援活動
genre : 福祉・ボランティア
午後6時。私たち、日本自立生活センターと京都でてこいランドのメンバー4名は、自動車組と新幹線組みに分かれて、1150キロの道のりを走り京都から被災地障がい者センターみやこに到着した。
常駐職員の方、先着しているボランティアの方々から出迎えを受け、何かしらの不安と使命感で少々の緊張感を覚えた。
自己紹介の後、早速に夕食前のミーティング。

各自スタッフの活動報告、課題、次の日の活動予定などが話された。

コーディネート役の山下さんの指示によって、明日は、お花見イベント案内チラシのポスティング、行政訪問などが確認された。
寒いことを覚悟していたこととはまったく逆で、岩手はこの冬一番の暖かい日となり、1階の人と2階の人に分かれての宿泊。ゆっくりと休むことができた。
次の日の30日
午前、一人は、定期点検、いや違った、定期点滴のため病院へ出かけ、二人はポスティングに出かけた。
・・・点滴を終えてから行政機関訪問と言っていた予定は、急遽変更とのこと。障害者支援プロジェクトの目的の一つでもあったKさんとの面会が、思いがけずに釜石で実現すると言う新しい情報で、京都組は山下さんの運転で釜石センターを訪問することになった。
山と海の風景が交互に現れる道中では、毎日のように報道で見せられていた山田町や大槌町の被災状況が目の前に現れた。

1年以上たった被災地でありながら、破壊された家屋の土台だけが残されたまま、いまだにまったく手付かず状態の所が多かった。

大きな店舗では1階が、小さな建物は跡形もなく、時には防波堤が破壊され、山間と思われるような所までの立ち木が倒れていた。思わずに、ここに自分がいたとしたらどうしていたのだろう、恐らくひとたまりもなく波に吸い込まれていたに違いない、と思ってしまった。

(続く)
theme : 東日本大震災支援活動
genre : 福祉・ボランティア
着いていきなり、忘年会に参加して岩手のいろんな当事者と交流しました。
二次会は、養護学校の先生がスナックを経営してる所に、皆さんで行きました。そこのスナックは、入口もスロープでした。スナックの中も広くて段差も無くて、とても良いスナックでした。
■二日目は、12月18日(日)は休みで自分は、熱を出してヘルパーに迷惑をかけました。
■三日目は、12月19日(月)は、被災地当事者の現状を聞きました。仮設住宅の窓口受け入れ先がはっきり決まっていないので調整中の地域もあると言っていました。
私は、沖縄(本島)に居てずっと生活をしてきているから、いわての寒さの現状を体感して他人事じゃないって、分かりました。
自分らは、被災地障がい者センターいわて(盛岡)から当事者ボランティアできていますが、被災地障がい者センターいわて(盛岡)よりたくさんの当事者がいる所が宮古だから、宮古の事務所に拠点を移したいといわての方も言っていました。
私たちがいわてに来る前に、「ILPプログラム」を若手でやったそうです。「ILPプログラム」に参加した30代の当事者が「僕も、一人暮らしをやりたい」と言う答えがありました。でも、一人じゃなくてグループホームでやりたいと希望がありました。自立生活センターの考えは、ヘルパーに自分のやりたい事の指示をうまく伝えて自立生活を成り立たせる事なので、これから、ILPを行いたいと担当者は、言っていました。
宮古から被災地障がい者センターいわて(盛岡)にくるお金もばかにならないから、とりあえず宮古を立ち上げたい為に、まず明日パーティーをやります。
何で、宮古に立ち上げたいと言ったらあっち(宮古)が作業所も、当事者の家族もいっぱいいますがヘルパー(介助者)の使い方がいまいち良くわからないって言う現実もありまので、その気持ちを変える為に毎月一回の楽しいイベントを行っていきたいって話もありました。
また、反省があり当事者ボランティアはせっかく遠くからきているので二週間ぐらいは居てほしいと被災地障がい者センターいわての人は言っていました。
来年の4月も「当事者ボランティア」を続けたら良いです。他県の当事者が来て、当事者本人が被災地の当事者と話し合いをするだけで、かなり勇気づけられるんじゃないかなと、話し合いで出ました。
■四日目、12月20日(火)昨日の話にあった、宮古の事務所でパーティーをやりました。
そこに、大阪夢中センターの代表平下さんや埼玉県のケアシステムわら細工センターの森住さんも来てたり、宮古(地元)の当事者と当事者家族が来てて、食事や意見交換をしました。「凄く楽しく過ごすことができました」


まだ、できたばっかりだから新しく出来た事務所でどう活動していくかの話とかは、今からかなぁ?と思います。事務所の周りは人通りが多いから、まずは事務所のアピールのチラシを配ったり季節ごとのイベントをやって気楽に誰もが通えるように、関わっているスタッフ・当事者で地元のみんなに口コミしていたら、良い場所になると自分は思っています。
■五日目12月21日(水)被災時にひなんした方の自宅訪問(佐々木るみさん)に行きました。
被災地の話を聞きました。とても凄いぐらい、つなみが自宅の近くまできて、るみさんは、車イスで家族(父さん、兄さん)と三人暮らしで、つなみがきて周りの方にるみさんが一生懸命「助けて下さい」と言っても周りの人達は、自分の事で頭がいっぱいで相手を助けると言う余裕がなかったと聞いて、思いました。
でも、自宅の周りに知り合いとかいてくれたら団体になって、一緒に逃げられたと自分は感じました。
避難所生活の時にるみさんは、お菓子とかいっぱい買って自宅に保管していたから、兄さんに「家から、わかした水とかお菓子を持ってきて」って、伝えてから食べ物をみんなでわけて過ごしましたと話をしていました


もし、自分だったら動けないし固まっていると思います。他県の元気な当事者が訪問していわての当事者に勇気をあげたり逆に貰ったりしていければ、お互いプラスになると思いました。
今日は、実際に当事者の自宅訪問して良かったです
■六日目12月22日(木)は朝の9:00に被災地障がい者センターいわて(盛岡)からかまいしにある仮設住宅に、住んでいる女性の方へ、ストーブを届けに行きました。そこには、つなみで家が飛ばされてる跡がいっぱいあり、テレビで見るよりも心にぐーと感じられました。


被災地障がい者センターいわて(盛岡)の事務所から、遠い所へ3時間かけて足りないものがあれば、すぐに運んでやりたいなーと思うのは、仲間もだし知らない方が居たらみんなで考える事だなぁーとしみじみ感じられました。
今度は、吉浜荘(大船渡)という施設に見学に行きました。そしたら、とても元気そうな男性に会いにみんなで行きました。
男性の名前は、木村さんって言う方でお喋りもとても上手くて、羨ましくなるぐらい話のレパートリーがいっぱいありすぎて凄く感心しました。
明日は、どんな出会いがまっているのが楽しみです。
■七日目12月23日(金)は、陸前高田の仮設住宅に親子二人暮らししている所へ訪問しました。
初め仮設は住宅の中に入りました。中は、結構バリアフリーでしたが、玄関が2段の段差があり車イスのままは入れなかったです。
住んでいる方は、身体障がい者でまえまでは、大工屋の仕事もやっていたと話していました。
つなみで迷子なっていた所をを病院の先生が見つけて、最初は話もできなかったがリハビリでだんだんと回復したおかげで、今は普通に会話かできていますと話してくれていました。
親子と一緒に、3時間かけてお世話になった先生に会いに、いわてリハビリセンター(森川)まで行きました
毎日、僕が行くところは見るのも聞くのも初めての場所ばっかりだから、当事者ボランティアで行ってるのに、逆に元気をもらってる感じがします。
■八日目12月24日(土)朝から、盛岡~宮古までみんなで行きました。 宮古で住んでいる所(粟津 たつのりさん)へ訪問しました。全然話はできない方で、男性の方ですがとても良い笑顔で周りの人達を明るくするような方でした。その方のお母さんもとても、明るいお母さんで楽しかったです。
近くの川に白鳥を見に行きました。沖縄では、なかなか生の白鳥は見れらないので最初は、「エェ~本当に見れるんですか?」と聞いたぐらいびっくりしました。

白鳥を見て、あんまり自分は動物は苦手でしたが、行ってちゃんと写メ~も写しました。
白鳥を見てから一緒に食事をしに行きました。宮古に事務所ができれば、もっとよくなる町ができるんじゃないかと思いました。
何も喋れないですが、将来は一人暮らしや良いパートナーと出会えて結婚もしたい夢があるから、夢を願って皆さんの力で誰もが一回の人生を一生懸命生きたいから、地域から変えたら良いのかなぁと思いました。
今日はいよいよ、宮古の事務所に一泊二日します。
明日は、一日休みです
■感想■
当事者ボランティアしに行くのって聞いて、自分が当事者宅行ってから悩み事を聞いて解決したりすると思い、いわてに行く前に沖縄で「ピアかんとか、ILプログラム」などいろいろ準備をして行きました。
いわてに当事者ボランティアをやりに行きましたら、困っている当事者の所へ行き、車で荷物(ヒーターなど救援物資)や当事者宅に行って話しをしたり一緒に病院に行ったり等の手伝いをしました。いわての方が僕らに、「助かりましたよ」と言われて自分らもいわてに来て良かったです。
2回目やるんだったらどういうことに困って居るかを聞いて勇気をつけられるサポートをやりたいと僕らは思って、また同じメンバーで春も来たいです。
本当に、いろんな事を学べた10日間でした。
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